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★本当にいる神とは
神は本当にいるのか・神が本当にいる証明・神の実在証明・神の存在証明(記事No.9)
【神は本当にいる】
神は実在する。神は本当に存在する。
神が実際にいることは、【理論で証明できる】。
●以下の、「★1と★2」から、<神が存在すると思って生きているのは、現実逃避であり、現実認識が出来ない人だけである>と、考える人が多い。
【★1。神が存在すると思って生きている人は】
<1>。現実認識が出来ない。
<2>。現実逃避でしか世界が見れない。
<3>。嘘を言われても、嘘だと判別できない(理論の破綻や、悪人の騙す行為に気付かない)。
<4>。狂っている。まともな人としての「心と考え」の機能に欠陥がある。
上記のように見える。
【★2。よくある宗教の教義は噓くさい】
<1>。信者からお金を騙し取るための、誘導の教義。
<2>。社会を円滑にするための法律としての教義。法律を守らせるために、神様の概念を使っているだけ。
<3>。現実逃避によって、嘘の世界観を与えることで、現実の痛みを、直視しないようにしている。
<4>。教義の理論が破綻している。(理論が正しくても、難しくて理解が出来なくて、「破綻している」と、考えてしまう場合もある)
上記のように見える。
●以下の「★3」から、<神はいない>と、考える人が多い。
【★3。学校の理学的な教え以上の、真実は無い】
<1>。学校の勉強では「神が世界を作った」のではなく、科学や生物学など理学的に、世界の因果や、状態を説明してくれるので、だいたいが中途半端に世界を理解して、世界を、理学の「一部の知識」で、認識して生きている。
世界を、一部分だけ切り取って見ている「部分的な世界が、世界の全てである」と、いう認識の世界観で生きている状態。
この状態が知的で、まともな人間だと思っている人が一番多い。
私は、この状態を、普通で、最低限の知能を持つ、一般的な人だと考える。
だが、真実とは、もう1段階上にあり、もう少し賢くならないと「真実や、正しい世界」を認識できない。
真実を認識できてこそ、私が提唱する「本来のまともな人」と、いうものだと思う。
※1。ちなみに、学校で学んだ理学は、現在の理学レベルでは「そう思うしかない」と、いう程度の、解釈の知識で、実際には、まだ理学的に世界は解明されていない部分が多い。
「分からない」という状態を人は嫌うので、「何らかの答え」で、「分からない」状態を、「分かっている」状態にしようとする。
「何らかの答え」には、間違いも多いが、なんとなく正しい感じがして、納得がいけば、それでよいと考える人が多く、答えの真偽を問う人は少ない。
●「★3」の、<もう1段階上にある、真実を認識した状態>で、「★3」の状態より、少し賢くなった状態が、以下の「★4」である。
【★4。「神が存在すると思って生きている人」の中には、現実と向き合って、現実を理解し、現実認識が出来ている人もいる】
<1>。【頭が良いからこそ<神の存在に気付いた人>】である。
<2>。<神の存在に気付いた人>とは、現実世界を理論的に考え、現実の真実として、神の存在に気付いた人である。
「神は本当にいる」、「神は実際に存在する」と、いう答えに、たどり着いた人である。
<3>。願望ではない。破綻した理論ではない。純粋な正しい理論で、神の存在は認識できる。
<4>。「自分という存在は、宇宙の中の、小さな小さな点の1つである」と、いう正しい現実を認識できるからこそ「神は実際に存在する」と、いう前提で、現実を生きている人である。
<5>。「神は、いない」、「神とは、ただの心の支え」、「神とは、現実逃避で幸せを得るためのもの」と、いう常識が蔓延しているのに<神の存在に気付いた人>がいる。自力で気付くことが出来た人もいる。
●「★4」の者が、理論で<神の存在>を提唱しているのが、以下の「★5」である。
【★5。<神が実際に存在する>と、いう理論で有名な「神の存在証明」の4つが以下である】
元々、中世の哲学者たちが提唱したものだが、私の考察も付けて、少しだけ理論の説明をしていく。
<1>。【目的論的証明とは】
世界のよくできた仕組み(自然界の秩序など)は、人間の思考力や技術を遥かに超えている。
世界にこのような仕組みや因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提。
【目的論的証明への、私の考察】
目的論的証明は、<<自然界にあるもの全てが、神を表している>>と捉えるもの。
21世紀の現在では、理学的に、自然界にあるものの仕組みが説明され、理学的に世界を捕えることで、世界を理解したつもりになっている人が多い。
理学的なものの見方は、人にとって理解しやすい、ドミノ理論などでの、ものの見方であり、世界の見方としては正しい。私は、理学的な、ドミノ理論などでの、ものの見方以外に、人の「考え」として、世界を正しく認識できる、方法は無いと考える。
だが、認識のレベルが低い。「知らないという事を、知らない状態」である。学者ですら、世界を知っているつもりになっている現状は問題である。
理学の道を極めれば、理学では説明のつかないような、「あまりにも」確率の低い、偶然の「重なり(複数)」を見つけ、神の存在を知る。
「ありえない」ことの連続性によって、今の世界が存在している。それこそが神が実際にいるという証明であり、「神と人との差」である。
人は神の許可するルール(作用反作用など)の中でしか生きられない。
人に許可されているルールでは、存在の説明が不可能なものが世界に多数存在する。
単純に現在の理学レベルが低いというのもあるが、レベルが高くなったとしても、人には超えられない壁が存在する。
人には超えられない壁とは、宇宙の法則に反するもの、すなわち宇宙の外からの感化。つまり、神からの感化である。(神と地球の間に存在する「神以外」からの感化も考えられる。だが、その「神以外」へも、神からの感化がある)
この神からの感化が、<「あまりにも」確率の低い、偶然の「重なり(複数)」>や、<「ありえない」ことの連続性>によって、世界に現れている。現れているものから、神からの感化に気付くことができる。
中途半端に知ったつもりでいる人は神に出会えず、学者の中でも、さらに知識を深め、高いレベルに達した人だけが、【世界の全ての存在の、ありえないという状態から、神の存在を認識する】。
神の実在を認識したものだけが<<自然界にあるもの全てから、神を見る>>ことができる。
<2>。【本体論的証明とは】
存在可能な者の中で、最大の存在者がいる。
世界には、最小の存在者と、最大の存在者が存在し、その2人の間に、両端の2人以外の、他の全ての存在者が、大きさ順に並ぶ。
「最大の存在者」とは、「有能な者」など、神の代名詞を意味する。
存在していない者より、存在している者の方が大きい(「大きい」とは、「有能」など、神が持つ能力の大きさ)。
だから、最大の存在者であるためには、存在している必要がある。
存在可能な者の中で、最大の存在者とは、神。
だから、神は存在している。
【本体論的証明への、私の考察】
私は、本体論的証明では、神の存在の証明が、出来ていないと考える。
「存在可能な者の中で、最大の存在者とは、神」という1文が、私は納得がいかない。
そうとは言えない理論だから。理論が破綻している。「最大の存在者=神」とは、ならないから。
だが、どういうことを言っているのかを、以下で少し説明しておく。
世界の全てのものには、大きい、小さいなどの差がある。宇宙や、宇宙の外の世界にも差がある。
まったく同一のものが存在しないから、差が発生する。
「世界には、最小と、最大が存在し、その2つの間に、両端の2つ以外の、他の全ての存在が、大きさ順に並ぶ」
<例えば>
世界で一番の背が大きい人、世界で一番の背が小さい人、というのは必ず存在する。
線を1本引いてみる。
線の片方の端が、世界で一番の背の大きい人、線の、もう片方の端が、世界で一番の背の小さい人。
そして、その両端の間にある、線上に、背の大きさ順に並んだ、両端の2人以外の、他の全ての世界の人が存在する。
各自、線上に、点として存在する。
点は、背の大きさによって、線上のどこに位置するかが変わる。
世界中の人が複数の点として存在し、その複数の点が、線を形状する。
<他の例え1>
世界で一番の高い山、世界で一番の低い山、世界中の、その間の高さの山たち。これも1本の線に表される。
<他の例え2>
世界で一番の長いキャンディ、世界で一番の短いキャンディ、世界中の、その間の長さのキャンディ。これも1本の線に表される。
<他の例え3>
世界で一番の美しい人、世界で一番の美しくない人、世界中の、その間の美しさの人達、これも1本の線に表される。
何を美しいと思うかは、人により違い、共通した目盛りが無いが、共通した目盛りが発見されていないだけで、発見されれば、やはり1本の線に表される。
これは、全てのものは2極化されるということで、その2極の間に、全てのものは、収まる。と、いうこと。
本体論的証明とは、
差により「一番の存在」があり、「世界で一番の神である者」と、「世界で一番の神でない者」が存在する。
そして、「世界で一番の神である者」が存在するので、「神」は存在する。と、いうこと。
ちなみに、 常に、人は生まれて死んでいるので、「誰が」、一番の背が大きい人なのか、「誰が」、一番の背が小さい人なのかは、常に変更されている。
「一番が誰か」が常に変更されているので、一番の、「どのぐらい」背が大きいのか、一番の、「どのぐらい」背が小さいのかも、常に変更されている。
※1。神の実在の証明とは、話が変わるが、私が提唱する実在の神とは、複数人存在し、1番上の神は1人であり、実在の1番上の神は交代するというもの。なぜなら、上記の理由で、各神には差があり、1番上という状態が変動するからである。
<3>。【宇宙論的証明とは】
世界の全てのものには、原因と、結果がある。
原因と結果は、宇宙や、宇宙の外の世界にもある。
宇宙には運動がある、物体が運動するには、何か原因がなければならない。
全ての運動の始まりには、一番最初の、原因が必ず存在する。
一番最初の原因こそが、神が作られたもの。
全てのものの根源とは何か。何から初まって宇宙ができたのか。
一番最初の原因の存在が、神の実在の証明である。
【宇宙論的証明への、私の考察】
私は、これが一番わかりやすい、神の存在の証明だと考える。
世界の全てのものの、「存在するという結果」の、過程を過去へとたどり(結果から、原因へと流れをたどる)、一番最初の原因を考えると、神へと、たどり着く。
世界の全ては、原因と結果の連続性の流れで、出来上がったもの。
時間の流れの性質上、原因の前に結果はこない。必ず、原因から始まり、結果にたどりつく。
目の前にあるもの、何でもよいが、それがあなたの目の前に存在するまでの、歴史を逆再生して考えると、
<運ばれて目の前に到着した→製造された→製造法が研究された→昔の人により、文明が少しずつ発展していった→原始人→地球の生命の1番最初のアメーバ→地球の星としての完成→宇宙の一番最初のビックバン→宇宙のビックバンの前の状態→さらにその前の状態→さらにその前の状態→・・・>
と、ず~~っと、さかのぼって行く。
私達のいる地球のある宇宙が、出来上がるための、一番最初の原因が、神である。
<4>。【道徳論的証明とは】
幸せに暮らしていくには、よい社会を作るとともに、心のよりどころも必要で、そのためには神の実在が必要。
道徳的な行いこそ善であり、善をした人には、幸福が手に入らなくてはならない。
この善行に対し、幸福が貰えるという関係は、神によって保証されなくてはならない。
なので、道徳的な行いを実践していく社会には、神を存在させないといけない。
【道徳論的証明への、私の考察】
私は、これは神の必要性を提唱しているだけで、神が実在するという証明にはならないと考える。
以上4つが、有名な【神の存在証明】の紹介である。
もっと深く知りたい方は、関係する哲学書を読んでみると、良いかと思う。
具体的な書物を紹介できると良いのだが、私はネットにある情報で「神様は実際にいるなぁ」と実感できてしまったので、具体的な書物を読んでいないのである。
神の実在証明に関する、意見などは大歓迎。
「神が実在する」という認識から、一般人が、私の善行の意味を理解し始めるので、私は、一般人に、なんとか、神の実在を気付かせたいと思っているから。
また、神が実際に存在すると気付いた人物は、歴史上に何人もいて、いろいろな逸話が世界中に残されている。
あなたが、神は本当にいると気付けば、その逸話の本当の意味に気付くことが出来る。
アインシュタインは「宇宙は誰かが作ったから、ある」と、発言し、神の存在に気付いていた1人であると思われる。
「全てのものは、誰かが作ったから、ある」のである。
さらに、実際に神がいると気付いた後、では、「神とは」どういう人か、「神が世界を作った目的は何なのか」などの、疑問が発生する。
この疑問への答えが、宗教の分裂の原因として、よくある。
私も、真理に気付いた一人として、私なりの、この疑問への答えを持っている。
そのうち「私なりの疑問への答え(真理)」を、紹介が出来たら良いと思っている。
今は、雑用などで忙しくて、なかなか出来ない状態である。
ちなみに、私が書いている「悪がいるからダメなんだ」という小説では、神は実際に存在するとし、私なりの、神というものの説明が書かれています。(フィクション小説での現実の説明)
無料ですので、ぜひ読んでみて下さい。
(2019/5現在、「悪がいるからダメなんだ」は、未完成です、しばらくお待ちください)
神は実在する。神は本当に存在する。
神が実際にいることは、【理論で証明できる】。
●以下の、「★1と★2」から、<神が存在すると思って生きているのは、現実逃避であり、現実認識が出来ない人だけである>と、考える人が多い。
【★1。神が存在すると思って生きている人は】
<1>。現実認識が出来ない。
<2>。現実逃避でしか世界が見れない。
<3>。嘘を言われても、嘘だと判別できない(理論の破綻や、悪人の騙す行為に気付かない)。
<4>。狂っている。まともな人としての「心と考え」の機能に欠陥がある。
上記のように見える。
【★2。よくある宗教の教義は噓くさい】
<1>。信者からお金を騙し取るための、誘導の教義。
<2>。社会を円滑にするための法律としての教義。法律を守らせるために、神様の概念を使っているだけ。
<3>。現実逃避によって、嘘の世界観を与えることで、現実の痛みを、直視しないようにしている。
<4>。教義の理論が破綻している。(理論が正しくても、難しくて理解が出来なくて、「破綻している」と、考えてしまう場合もある)
上記のように見える。
●以下の「★3」から、<神はいない>と、考える人が多い。
【★3。学校の理学的な教え以上の、真実は無い】
<1>。学校の勉強では「神が世界を作った」のではなく、科学や生物学など理学的に、世界の因果や、状態を説明してくれるので、だいたいが中途半端に世界を理解して、世界を、理学の「一部の知識」で、認識して生きている。
世界を、一部分だけ切り取って見ている「部分的な世界が、世界の全てである」と、いう認識の世界観で生きている状態。
この状態が知的で、まともな人間だと思っている人が一番多い。
私は、この状態を、普通で、最低限の知能を持つ、一般的な人だと考える。
だが、真実とは、もう1段階上にあり、もう少し賢くならないと「真実や、正しい世界」を認識できない。
真実を認識できてこそ、私が提唱する「本来のまともな人」と、いうものだと思う。
※1。ちなみに、学校で学んだ理学は、現在の理学レベルでは「そう思うしかない」と、いう程度の、解釈の知識で、実際には、まだ理学的に世界は解明されていない部分が多い。
「分からない」という状態を人は嫌うので、「何らかの答え」で、「分からない」状態を、「分かっている」状態にしようとする。
「何らかの答え」には、間違いも多いが、なんとなく正しい感じがして、納得がいけば、それでよいと考える人が多く、答えの真偽を問う人は少ない。
●「★3」の、<もう1段階上にある、真実を認識した状態>で、「★3」の状態より、少し賢くなった状態が、以下の「★4」である。
【★4。「神が存在すると思って生きている人」の中には、現実と向き合って、現実を理解し、現実認識が出来ている人もいる】
<1>。【頭が良いからこそ<神の存在に気付いた人>】である。
<2>。<神の存在に気付いた人>とは、現実世界を理論的に考え、現実の真実として、神の存在に気付いた人である。
「神は本当にいる」、「神は実際に存在する」と、いう答えに、たどり着いた人である。
<3>。願望ではない。破綻した理論ではない。純粋な正しい理論で、神の存在は認識できる。
<4>。「自分という存在は、宇宙の中の、小さな小さな点の1つである」と、いう正しい現実を認識できるからこそ「神は実際に存在する」と、いう前提で、現実を生きている人である。
<5>。「神は、いない」、「神とは、ただの心の支え」、「神とは、現実逃避で幸せを得るためのもの」と、いう常識が蔓延しているのに<神の存在に気付いた人>がいる。自力で気付くことが出来た人もいる。
●「★4」の者が、理論で<神の存在>を提唱しているのが、以下の「★5」である。
【★5。<神が実際に存在する>と、いう理論で有名な「神の存在証明」の4つが以下である】
元々、中世の哲学者たちが提唱したものだが、私の考察も付けて、少しだけ理論の説明をしていく。
<1>。【目的論的証明とは】
世界のよくできた仕組み(自然界の秩序など)は、人間の思考力や技術を遥かに超えている。
世界にこのような仕組みや因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提。
【目的論的証明への、私の考察】
目的論的証明は、<<自然界にあるもの全てが、神を表している>>と捉えるもの。
21世紀の現在では、理学的に、自然界にあるものの仕組みが説明され、理学的に世界を捕えることで、世界を理解したつもりになっている人が多い。
理学的なものの見方は、人にとって理解しやすい、ドミノ理論などでの、ものの見方であり、世界の見方としては正しい。私は、理学的な、ドミノ理論などでの、ものの見方以外に、人の「考え」として、世界を正しく認識できる、方法は無いと考える。
だが、認識のレベルが低い。「知らないという事を、知らない状態」である。学者ですら、世界を知っているつもりになっている現状は問題である。
理学の道を極めれば、理学では説明のつかないような、「あまりにも」確率の低い、偶然の「重なり(複数)」を見つけ、神の存在を知る。
「ありえない」ことの連続性によって、今の世界が存在している。それこそが神が実際にいるという証明であり、「神と人との差」である。
人は神の許可するルール(作用反作用など)の中でしか生きられない。
人に許可されているルールでは、存在の説明が不可能なものが世界に多数存在する。
単純に現在の理学レベルが低いというのもあるが、レベルが高くなったとしても、人には超えられない壁が存在する。
人には超えられない壁とは、宇宙の法則に反するもの、すなわち宇宙の外からの感化。つまり、神からの感化である。(神と地球の間に存在する「神以外」からの感化も考えられる。だが、その「神以外」へも、神からの感化がある)
この神からの感化が、<「あまりにも」確率の低い、偶然の「重なり(複数)」>や、<「ありえない」ことの連続性>によって、世界に現れている。現れているものから、神からの感化に気付くことができる。
中途半端に知ったつもりでいる人は神に出会えず、学者の中でも、さらに知識を深め、高いレベルに達した人だけが、【世界の全ての存在の、ありえないという状態から、神の存在を認識する】。
神の実在を認識したものだけが<<自然界にあるもの全てから、神を見る>>ことができる。
<2>。【本体論的証明とは】
存在可能な者の中で、最大の存在者がいる。
世界には、最小の存在者と、最大の存在者が存在し、その2人の間に、両端の2人以外の、他の全ての存在者が、大きさ順に並ぶ。
「最大の存在者」とは、「有能な者」など、神の代名詞を意味する。
存在していない者より、存在している者の方が大きい(「大きい」とは、「有能」など、神が持つ能力の大きさ)。
だから、最大の存在者であるためには、存在している必要がある。
存在可能な者の中で、最大の存在者とは、神。
だから、神は存在している。
【本体論的証明への、私の考察】
私は、本体論的証明では、神の存在の証明が、出来ていないと考える。
「存在可能な者の中で、最大の存在者とは、神」という1文が、私は納得がいかない。
そうとは言えない理論だから。理論が破綻している。「最大の存在者=神」とは、ならないから。
だが、どういうことを言っているのかを、以下で少し説明しておく。
世界の全てのものには、大きい、小さいなどの差がある。宇宙や、宇宙の外の世界にも差がある。
まったく同一のものが存在しないから、差が発生する。
「世界には、最小と、最大が存在し、その2つの間に、両端の2つ以外の、他の全ての存在が、大きさ順に並ぶ」
<例えば>
世界で一番の背が大きい人、世界で一番の背が小さい人、というのは必ず存在する。
線を1本引いてみる。
線の片方の端が、世界で一番の背の大きい人、線の、もう片方の端が、世界で一番の背の小さい人。
そして、その両端の間にある、線上に、背の大きさ順に並んだ、両端の2人以外の、他の全ての世界の人が存在する。
各自、線上に、点として存在する。
点は、背の大きさによって、線上のどこに位置するかが変わる。
世界中の人が複数の点として存在し、その複数の点が、線を形状する。
<他の例え1>
世界で一番の高い山、世界で一番の低い山、世界中の、その間の高さの山たち。これも1本の線に表される。
<他の例え2>
世界で一番の長いキャンディ、世界で一番の短いキャンディ、世界中の、その間の長さのキャンディ。これも1本の線に表される。
<他の例え3>
世界で一番の美しい人、世界で一番の美しくない人、世界中の、その間の美しさの人達、これも1本の線に表される。
何を美しいと思うかは、人により違い、共通した目盛りが無いが、共通した目盛りが発見されていないだけで、発見されれば、やはり1本の線に表される。
これは、全てのものは2極化されるということで、その2極の間に、全てのものは、収まる。と、いうこと。
本体論的証明とは、
差により「一番の存在」があり、「世界で一番の神である者」と、「世界で一番の神でない者」が存在する。
そして、「世界で一番の神である者」が存在するので、「神」は存在する。と、いうこと。
ちなみに、 常に、人は生まれて死んでいるので、「誰が」、一番の背が大きい人なのか、「誰が」、一番の背が小さい人なのかは、常に変更されている。
「一番が誰か」が常に変更されているので、一番の、「どのぐらい」背が大きいのか、一番の、「どのぐらい」背が小さいのかも、常に変更されている。
※1。神の実在の証明とは、話が変わるが、私が提唱する実在の神とは、複数人存在し、1番上の神は1人であり、実在の1番上の神は交代するというもの。なぜなら、上記の理由で、各神には差があり、1番上という状態が変動するからである。
<3>。【宇宙論的証明とは】
世界の全てのものには、原因と、結果がある。
原因と結果は、宇宙や、宇宙の外の世界にもある。
宇宙には運動がある、物体が運動するには、何か原因がなければならない。
全ての運動の始まりには、一番最初の、原因が必ず存在する。
一番最初の原因こそが、神が作られたもの。
全てのものの根源とは何か。何から初まって宇宙ができたのか。
一番最初の原因の存在が、神の実在の証明である。
【宇宙論的証明への、私の考察】
私は、これが一番わかりやすい、神の存在の証明だと考える。
世界の全てのものの、「存在するという結果」の、過程を過去へとたどり(結果から、原因へと流れをたどる)、一番最初の原因を考えると、神へと、たどり着く。
世界の全ては、原因と結果の連続性の流れで、出来上がったもの。
時間の流れの性質上、原因の前に結果はこない。必ず、原因から始まり、結果にたどりつく。
目の前にあるもの、何でもよいが、それがあなたの目の前に存在するまでの、歴史を逆再生して考えると、
<運ばれて目の前に到着した→製造された→製造法が研究された→昔の人により、文明が少しずつ発展していった→原始人→地球の生命の1番最初のアメーバ→地球の星としての完成→宇宙の一番最初のビックバン→宇宙のビックバンの前の状態→さらにその前の状態→さらにその前の状態→・・・>
と、ず~~っと、さかのぼって行く。
私達のいる地球のある宇宙が、出来上がるための、一番最初の原因が、神である。
<4>。【道徳論的証明とは】
幸せに暮らしていくには、よい社会を作るとともに、心のよりどころも必要で、そのためには神の実在が必要。
道徳的な行いこそ善であり、善をした人には、幸福が手に入らなくてはならない。
この善行に対し、幸福が貰えるという関係は、神によって保証されなくてはならない。
なので、道徳的な行いを実践していく社会には、神を存在させないといけない。
【道徳論的証明への、私の考察】
私は、これは神の必要性を提唱しているだけで、神が実在するという証明にはならないと考える。
以上4つが、有名な【神の存在証明】の紹介である。
もっと深く知りたい方は、関係する哲学書を読んでみると、良いかと思う。
具体的な書物を紹介できると良いのだが、私はネットにある情報で「神様は実際にいるなぁ」と実感できてしまったので、具体的な書物を読んでいないのである。
神の実在証明に関する、意見などは大歓迎。
「神が実在する」という認識から、一般人が、私の善行の意味を理解し始めるので、私は、一般人に、なんとか、神の実在を気付かせたいと思っているから。
また、神が実際に存在すると気付いた人物は、歴史上に何人もいて、いろいろな逸話が世界中に残されている。
あなたが、神は本当にいると気付けば、その逸話の本当の意味に気付くことが出来る。
アインシュタインは「宇宙は誰かが作ったから、ある」と、発言し、神の存在に気付いていた1人であると思われる。
「全てのものは、誰かが作ったから、ある」のである。
さらに、実際に神がいると気付いた後、では、「神とは」どういう人か、「神が世界を作った目的は何なのか」などの、疑問が発生する。
この疑問への答えが、宗教の分裂の原因として、よくある。
私も、真理に気付いた一人として、私なりの、この疑問への答えを持っている。
そのうち「私なりの疑問への答え(真理)」を、紹介が出来たら良いと思っている。
今は、雑用などで忙しくて、なかなか出来ない状態である。
ちなみに、私が書いている「悪がいるからダメなんだ」という小説では、神は実際に存在するとし、私なりの、神というものの説明が書かれています。(フィクション小説での現実の説明)
無料ですので、ぜひ読んでみて下さい。
(2019/5現在、「悪がいるからダメなんだ」は、未完成です、しばらくお待ちください)