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★現実認識と妄想
現実とは (記事No.47)
現実とは、現実の見方とは、現実を認識するとは、以下である。
【★1。現実を認識している状態とは】
<1>「客観的に見ている」認識の状態である。
<2>状況を、第3者として、見ているような状態である。
【★2。現実を認識できていない状態とは】
<1>「主観的に見ている」認識の状態である。
<2>自我が、意識の多くをしめている状態である。
<3>妄想をしている状態である。
<4>現実の状況の把握は、出来ていない状態である。
<5>認識している、周りにある世界が、狭い状態である。
<例えば1>
①作業に集中して、周りの環境に意識がいっていない状態は、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
②面白いことや、悩み事などを考えている時に、考えに集中して、周りの環境に意識がいっていない状態は、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
③現実から逃避しようとする状態は、「主観的」な意識(妄想)に、一生懸命に集中しようとし、周りの環境に意識がいっていない状態は、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
④妄想を、考えている状態や、体感している状態は、「主観的」な意識(妄想)に集中している状態で、周りの環境に意識がいっていない状態で、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
<例えば2>
有能な者(A)が、自分の持つ能力や、「心と考え」で、実際の状況に対処したときに、妄想を楽しむ者(B)が、(A)の行動を、カッコイイと思い、(A)の行動をモノマネして、自分も有能であるという、妄想を楽しんでいる場合。
現実の視点から見ると、
①有能な者(A)が、誰かのモノマネをしようと、行動したわけではなく、自分の持つ能力や、「心と考え」で、実際の状況に、真面目に対処した。という、「現実の状態」がある。
そういう(A)という物体の存在する状態がある。
②妄想を楽しむ者(B)が、有能な者(A)の、モノマネをして、自分が有能であると、妄想し、妄想を疑似体験的に楽しんでいる。という、「現実の状態」がある。
そういう(B)という物体の存在する状態がある。
③妄想を楽しむ者(B)の、妄想の中の、(B)の有能さは、「現実の状態」にはない。
妄想を楽しむ者(B)の、妄想の中の、(B)の有能さは、存在しない。
という、現実の認識になる。これが、現実を認識している状態である。
現実の視点からみると、「行った者」と、「行った者のモノマネをした者」、という存在がある。
(A)と、(B)の物体の状態の、現実認識を深めるには、(A)と、(B)の「心と考え」、分泌物などの、物体の状態の認識を深めることが必要になる。
(A)と、(B)の物体の状態を、知れば知るほど、(A)と、(B)の物体の状態の、現実認識が深まっていく。
現実は、真実の状態である。
現実認識とは、真実を認識することある。
そして、正しい現実認識とは、神の目線と同じである。
完全な現実認識とは、神のみが可能であるが、現状、人が、完全な現実認識に、近付いていこうとする努力が必要である。
現実を認識する目線とは、物体が存在している、という状態として、見る(考える)と分かりやすいかもしれない。
上記の例でいうと、(A)という状態の物体と、(B)という状態の物体がある。という状態で、認識することが、現実認識である。
【★1。現実を認識している状態とは】
<1>「客観的に見ている」認識の状態である。
<2>状況を、第3者として、見ているような状態である。
【★2。現実を認識できていない状態とは】
<1>「主観的に見ている」認識の状態である。
<2>自我が、意識の多くをしめている状態である。
<3>妄想をしている状態である。
<4>現実の状況の把握は、出来ていない状態である。
<5>認識している、周りにある世界が、狭い状態である。
<例えば1>
①作業に集中して、周りの環境に意識がいっていない状態は、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
②面白いことや、悩み事などを考えている時に、考えに集中して、周りの環境に意識がいっていない状態は、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
③現実から逃避しようとする状態は、「主観的」な意識(妄想)に、一生懸命に集中しようとし、周りの環境に意識がいっていない状態は、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
④妄想を、考えている状態や、体感している状態は、「主観的」な意識(妄想)に集中している状態で、周りの環境に意識がいっていない状態で、「主観的」で、「現実認識が出来ていない」状態である。
<例えば2>
有能な者(A)が、自分の持つ能力や、「心と考え」で、実際の状況に対処したときに、妄想を楽しむ者(B)が、(A)の行動を、カッコイイと思い、(A)の行動をモノマネして、自分も有能であるという、妄想を楽しんでいる場合。
現実の視点から見ると、
①有能な者(A)が、誰かのモノマネをしようと、行動したわけではなく、自分の持つ能力や、「心と考え」で、実際の状況に、真面目に対処した。という、「現実の状態」がある。
そういう(A)という物体の存在する状態がある。
②妄想を楽しむ者(B)が、有能な者(A)の、モノマネをして、自分が有能であると、妄想し、妄想を疑似体験的に楽しんでいる。という、「現実の状態」がある。
そういう(B)という物体の存在する状態がある。
③妄想を楽しむ者(B)の、妄想の中の、(B)の有能さは、「現実の状態」にはない。
妄想を楽しむ者(B)の、妄想の中の、(B)の有能さは、存在しない。
という、現実の認識になる。これが、現実を認識している状態である。
現実の視点からみると、「行った者」と、「行った者のモノマネをした者」、という存在がある。
(A)と、(B)の物体の状態の、現実認識を深めるには、(A)と、(B)の「心と考え」、分泌物などの、物体の状態の認識を深めることが必要になる。
(A)と、(B)の物体の状態を、知れば知るほど、(A)と、(B)の物体の状態の、現実認識が深まっていく。
現実は、真実の状態である。
現実認識とは、真実を認識することある。
そして、正しい現実認識とは、神の目線と同じである。
完全な現実認識とは、神のみが可能であるが、現状、人が、完全な現実認識に、近付いていこうとする努力が必要である。
現実を認識する目線とは、物体が存在している、という状態として、見る(考える)と分かりやすいかもしれない。
上記の例でいうと、(A)という状態の物体と、(B)という状態の物体がある。という状態で、認識することが、現実認識である。
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